2008年、世界に衝撃を与えた一冊の本がありました。人間のあらゆる行動がいかに不合理であるかを説いた名著、『予想どおりに不合理』です。 著者のダン・アリエリー(Dan Ariely)教授は、私たちの脳がいかにバイアスに満ち、直感に頼り、しばしば自分でも気づかないうちに非論理的な選択をしてしまうかを証明しました。
しかし、今回アリエリー教授が新たに突きつけたのは、より過激で根深い問題です。
例えば「9.11テロは米政府による自作自演である」「月面着陸は捏造である」といった極端な言説を固く信じながらそれを周囲に拡散する人も少なくありません。

日本にもいろんな陰謀論がありますよね
「なぜ、まともで知的な人間が、一歩ずつ陰謀論の深みへとはまり、戻れなくなってしまうのか?」
単にフェイクニュースを一つ信じることではなく、誤った信念を深く盲信し、それに基づいて世界を解釈する心理状態です。それを著者はMisbelief(誤信)と言います。
なぜ今、この研究が必要だったのか。 それはアリエリー教授自身が、2020年以降、ネット上のコミュニティから「エリート集団の黒幕」「洗脳の実行犯」として猛烈な攻撃を受けたそうです。
教授は逃げるのではなく、自分を攻撃する人々の心理を理解するために、陰謀論のコミュニティへと自ら足を踏み入れるなど、そんな経験から生まれた2024年最新作が『Misbelief』です。
日本語版は現時点でまだ出版されていません。
陰謀論――「不可能な嘘」
アリエリー教授はまず、陰謀論がいかに論理的に破綻しているかを、強力な理由で一蹴します。
「そんなに多くの人を騙し通せるわけがない」
アメリカの月面着陸を例にとってみましょう。 このプロジェクトには、数万人のスタッフ、数十万人のエンジニア、無数の大小さまざまな企業が関わっています。 もしこれが嘘なら、関わったすべての人々を沈黙させ続けなければなりません。 「一つの嘘を隠すためには、さらに無数の嘘をつき続けなければならない」のです。 これほどの規模の「意図的な操作」を維持することは不可能です。
「ハンロンの剃刀」という視点
アリエリー教授は、「ハンロンの剃刀」という原則を重視します。
「愚かさやエラーで十分に説明がつくものに、悪意(陰謀)を見出すな」
世の中の不合理な出来事の多くは、誰かの陰謀ではなく、単なる「人間の愚かさ」や「寄せ集めチームのミス」によって引き起こされています。 巨大組織の内部は常に衝突に満ちており、単純な計画の実行でさえミスが頻発するのが現実です。
「誤信(Misbelief)の漏斗」:転落の4つの階層
まともな人が陰謀論者へと変貌する過程を、教授は「誤信の漏斗(じょうご)」というフレームワークで説明します。 これは一度入り込むと抜け出せない、不合理の加速装置です。

第1層:感情の土壌(欠乏と孤立)
人は、強いストレスや先行きの見えない不安に直面すると、心理的に不安定になります。 具体的には3つの「刃」が私たちを襲います。
- 不可予測な圧力:突発的な病気や失業など、自分ではコントロール不能なストレスが重なると、人間は「学習性無力感」に陥り、世界に強い疑念を抱きます。こういう時人間は、怒りをぶつける対象を必要としているのです。
- 欠乏(Scarcity):心に「余裕がない」状態は、人間の「認知の帯域幅(キャパシティ)」を著しく低下させます。 知能スコアが低下し、独断的な判断を下しやすくなります。
- 孤立感:周囲が充実して見える中で自分だけが不運だと感じると、強烈な被害者意識が生まれます。 「誰かが自分を標的にしている」という論理に繋がりやすくなります。
一本の刃でさえ辛いのに、これら三本の刃が同時に襲いかかってきたらどうなるでしょうか?
このような感情に支配された人々が最も必要とする心理的出口は、「悪人」を見つけることです。「私たちの苦難はすべて、この悪人のせいだ」と定義することです。
これらに対し、身近な人と「安全な愛着(セキュア・アタッチメント)」を築けている人は、安心感という「回復力(レジリエンス)」によって耐えることができます。
安心感を提供することは、それほど難しいことではありません。時には、友人の声にただ耳を傾けるだけで十分なのです。
第2層:認知の罠(バイアスと動機)
感情的なストレスが重なると、次に認知的な「バグ」が作動します。
- 確認バイアス:自分が信じたい情報だけを取り込み、反対の証拠には目をつぶります。
星座占いが当たる気がするのも同じ原理です。「〇〇座の人は情に厚い」と言われ、少しでも心当たりがあれば「当たってる!」と興奮し、外れている部分は自動的に無視してしまいます。 確認バイアスを避けるには、あえて「反対方向の証拠」を探さなければなりません。しかし、それは「大好きな人の悪評を自ら探し回る」ようなもので、人間の本性に真っ向から反する行為なのです。 - 動機付けられた推論:「事実」を直視する前に、すでに「欲しい結論」が決まっているのです。
まず「やりたいこと(結論)」があり、それに合わせて「どの事実を認めるか」を決定します。私たちは常に、何らかの「動機」を持って事実を語っているのです。
第3層:性格の特徴(マジカル・パーソナリティ)
特定の性格を持つ人は、より陰謀論にハマりやすい傾向があります。 アリエリー教授はこれを「マジカル・パーソナリティ(魔性人格)」と呼びます。
- オカルト的思考:超自然的な因果関係を信じやすい。
- 虚偽記憶:実際には起きていないことを起きたと誤認しやすい。
- 自己愛(ナラシシズム):自分が世界の中心でありたいと願い、特別な真実を知っていることに万能感を感じます。
彼らの全体像はこうです。直感を信じ、論理的思考が苦手で、記憶が不確か。誰も気づかない「隠された法則」を発見したと悦に浸り、尊大に振る舞う。彼らは「この世界は間違っており、エリートたちが悪事を企んでいる。真実を知る自分たちこそが世界を救わなければならない」と心から信じ込んでいるのです。
第4層:社会の漩渦(帰属意識の罠)
最も危険なのがこの最終段階です。 社会から冷笑され、排斥された人々は、ネット上の陰謀論コミュニティに救いを求めます。かつての友人に避けられ、集まりに呼ばれなくなり、世間から冷笑される。そんなとき、ネット上で「君の言うことはすべて正しい。君はノーベル賞級の発見をしている」と全肯定してくれるコミュニティを見つけたら。そこは彼らにとって、唯一の「凍えない場所」になるのです。
- 認知的不協和の解消:「これだけ多くの犠牲を払ってきた自分が間違っているはずがない」理屈をこね、自らの正しさを守ろうとしたのです。家族と絶縁し、デモに参加し、地位を捨てた人ほど、もはや後戻りはできません。
- 集団の極端化:結束を強めるために、より過激な言動が「忠誠の証」として称えられ、組織はブラックホールのように外部から救い出せなくなります。
解決策はあるのか
アリエリー教授が人間社会の未来に対して深い憂慮を抱いています。確かに教授は、何か「決定的な解決策」を提示しているわけではありません。しかし、非常に重要な指針をいくつか示してくれています。
ベンジャミン・フランクリン効果の活用
アメリカ建国の父、ベンジャミン・フランクリンには、議会に政敵がいました。フランクリンはある時、その相手に「あなたが持っているという非常に稀少な本を、数日間貸してほしい」というメモを送りました。相手は本を貸してくれました。一週間後、フランクリンは丁重な感謝の手紙を送りました。
たったこれだけのことですが、次に二人が会ったとき、相手はフランクリンに対して非常に友好的に接するようになり、その後、いかなる場面でもフランクリンのために尽力することを厭わなくなりました。その友情は、相手が亡くなるまで続いたと言います。
相手を論破しようとするのではなく、あえて「小さなお願い事」をして助けてもらうことで、相手の「認知的不協和」を逆転させ、友好的な関係を築く手法です。
最も根本的な解決策は「信頼(トラスト)」
陰謀論の本質は認知の問題ではなく、社会の問題です。他者との繋がりを失い、受け入れられているという感覚を失った結果、人は現実に対する判断力をも失ってしまうのです。陰謀論は単なる「症状」にすぎず、本当の病はもっと深いところにあります。
結論
『誤信(Misbelief)』が私たちに教えるのは、怒りではなく、「同情と理解」の必要性です。 陰謀論にハマる人々は悪人ではありません。 ストレスや不安、そして人間が本来持っている「不合理な性質」に飲み込まれてしまった犠牲者なのです。
私たちに必要なのは、論理的な論破ではなく、いかに相手に「居場所」を再提供し、信頼を築けるかという点、その小さな実践が出発点になるでしょう。
Dan Ariely 『Misbelief: What Makes Rational People Believe Irrational Things』2023


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