人生は「二つのくじ」で決まる?『遺伝と平等』の提案:遺伝は格差を生むだけではなく、平等実現に貢献できる

科学・技術
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「努力すれば報われる」――私たちは多かれ少なかれ、この言葉を信じて生きています。しかし、もし成功の裏側に、本人の努力ではどうにもならない「運」が潜んでいるとしたらどうでしょうか?

2023年に邦訳されたキャスリン・ペイジ・ハーデン教授(テキサス大学オースティン校心理学部教授)の著書The Genetic Lottery(邦題:『遺伝と平等:人生の成り行きは変えられる』)は、現代社会が目を背けてきた「遺伝」と「格差」の不都合な真実に切り込み、欧米で激しい議論を巻き起こしました。

『エコノミスト』誌の2021年ベストブック(年間最優秀図書)に選出されたり、『ランセット』『ニューヨーカー』など一流誌がこぞって特集書評を掲載していました。

ハーデン教授は、「自由派は環境論(進化論)を信じ、保守派は生物学(遺伝)を信じる」という従来の二極化した対立に対し、「第三の道」を提示しています。 彼女の主張は、「遺伝のくじ(ランダム性)」を客観的に認めることこそが、個人の努力不足を責める偏見をなくし、真に公平な社会制度や教育改革を設計するための唯一の手段であるというものです。

私たちが引き当てる「二つのくじ」

投資の神様ウォーレン・バフェットは、自らの成功を語る際、「卵巣のくじ(The Ovarian Lottery)」という言葉を使いました。良い家庭環境、知的な両親、恵まれた教育機会――これらを「たまたま引き当てた」ことが成功の要因だという謙虚な視点です。

しかし、著者のハーデン教授は、人は出生時にもう一つのくじを引いていると言います。それが「遺伝のくじ(The Genetic Lottery)」です。何年前に大流行した「親ガチャ」に似ている単語です。

容姿、身長、学習能力、先天的な疾患のリスク。これらは遺伝子によって大きく左右されます。家庭環境以上に個人の一生に長く、深く影響を与えるこの「DNAの配列」もまた、本人が選ぶことはできない高度にランダムな結果なのです。

個人はこのランダム性を受け入れるしかありませんが、国家や社会はどう向き合うべきでしょうか? 多くの政府は「卵巣のくじ」の格差を埋めるために、所得補償や教育環境の整備に力を入れています。しかし、「遺伝のくじ」による格差については、意見が真っ二つに分かれます。

「遺伝がすべてなら、親を選別すべきだ」という極端な優生学的思想から、「遺伝の影響は努力でカバーできる。親がもっと厳しく教育すべきだ」というスパルタ的教育観まで、その分断は根深いものです。ハーデン教授は、これら両極端な視点を「無知による偏見」として一蹴し、新たな道を提示します。

第一の誤解:優生学という「負の遺産」と過度な単純化

遺伝を語る際、まず私たちが直視しなければならないのは、歴史上の悲劇である「優生学」の失敗です。

19世紀、ダーウィンの従兄弟フランシス・ゴルトンは、「智力や才能は遺伝する」と主張しました。彼はエリート層の家系図を調査し、成功者の子孫は成功者であることから、優れた血統を残し、劣った血統を淘汰すべきだと説きました。これが現代まで続く差別の根源となったのです。

アメリカでは20世紀初頭から1970年代にかけて、「社会に不適合」とみなされた人々に対して、法的に強制断種手術が行われていました。キャリー・バックという少女が「三代続けて知的障害だから十分だ」という理不尽な判決で手術を強いられた事件は、その象徴です(実際には彼女の娘は学校で優秀な成績を収めていました)。

ハーデン教授は、これらの悲劇の背景には「過度な単純化」という科学的誤解があったと指摘します。

例えば、身長を決定する遺伝子は一つではありません。10万個もの遺伝子が複雑に絡み合い、さらに環境と相互作用して結果が決まります。遺伝は単純な線形プロセスではなく、極めてランダムで複雑なものなのです。

「レモンチキン」の比喩:遺伝子はレシピに過ぎない

ハーデン教授は、遺伝子を「レシピ」に例えます。

同じレシピであっても、食材の質(アメリカのジャガイモかヨーロッパのジャガイモか)や、調理器具(オーブンの性能)、さらには料理人の集中力によって、出来上がる料理の味は全く異なります。

DNA情報の点位が一つ重複するだけで先天的な疾患につながることもあれば、環境との組み合わせで才能として開花することもある。この予測不可能な複雑さを無視して、「血統」だけで人を判断することは、科学的に見ても完全な誤りなのです。

第二の誤解:能力主義(メリトクラシー)という「遺伝子盲」

優生学が否定された後、現代社会の主流となったのが「能力主義」です。「家柄や血筋ではなく、個人の能力と実績で評価しよう」という、一見公平な考え方です。

しかし、ハーデン教授はこの考え方を「遺伝子盲(遺伝子の影響から目を逸らしている)」と厳しく批判します。

「努力できる才能」もまた、運である

多くの人は「学力は遺伝するかもしれないが、努力や粘り強さは本人の意志だ」と考えがちです。しかし、ハーデン教授の双子研究によって驚くべき事実が明らかになりました。

「忍耐力」「誠実性」「知的好奇心」といった非認知的スキルも、その約60%が遺伝の影響を受けていたのです。

これは智力(IQ)の遺伝率とほぼ同等です。つまり、「一生懸命勉強できる」「目標に向かって努力できる」という資質さえも、かなりの部分が「遺伝のくじ」で引き当てた幸運によるものかもしれないのです。

能力主義の勝者は「自分の力で勝ち取った」と自惚れ、敗者は「努力が足りなかった」と自らを責める。しかし、その「努力する力」自体に遺伝的な偏りがあるのだとしたら、現在の能力主義は「遺伝子の勝者」をさらに称賛しているに過ぎないのではないでしょうか。

教育の公平性を再定義する「眼鏡効果」

遺伝の影響がこれほどまでに大きいのだとしたら、個人の努力は無意味なのでしょうか? ハーデン教授は、そうではないと断言します。

「遺伝の影響」を認めることは、決定論に屈することではなく、社会をより公平にするための設計図を手に入れることです。ここで彼女が提唱するのが、経済学者ゴールドバーガーの思想実験「眼鏡効果」です。

弱者を助け、全員の利益にする

視力の悪さが遺伝によるものであっても、私たちは「眼鏡」というテクノロジーを使って、視力が良い人と同じように生活できるようにします。眼鏡によって視力が良い人の権利が損なわれることはありません。

教育においても、この「眼鏡」のような仕組みが必要です。これを「補償的公正」と呼びます。

具体的実践:数学の選択が人生を分ける

ハーデン教授は、1990年代のアメリカの高校教育の事例を挙げます。

当時、14歳の時点で「簡単な代数」を選ぶか「複雑な幾何」を選ぶかによって、将来微積分を学べる確率が劇的に変わりました。そして、微積分の学習経験は、一流大学への進学や将来の年収に最大18倍もの差をもたらしていたのです。

14歳の子供に自由な選択をさせ、その時点での「数学的センス(遺伝的優位性)」だけでコースを分けさせるのは公平でしょうか?

ハーデン教授の解決策はシンプルです。「全員に高等数学を必修化する」こと。

遺伝的な才能がある子だけでなく、そうでない子にも「微積分」という社会への扉を開くための鍵(眼鏡)を強制的に渡す。これによって、初期の遺伝的劣勢が一生を左右するのを防ぐことができるのです。

レシピから「レストラン」へ:包括的な社会の実現

ハーデン教授は、最後に力強いメッセージを投げかけます。

「特定の遺伝子はレシピであり、ゲノム全体はレシピ本だ。しかし、子供の人生はその一ページではなく、レストラン全体である」と。

私たちがレストランを評価するとき、料理一品の味(特定の遺伝的特徴)だけで決めることはありません。店内の雰囲気、サービスの質、音楽、座席の居心地――。それらすべてが組み合わさって「素晴らしい体験」となります。

良い社会とは、特定の「優れた遺伝子」を持つ者だけがリソースを独占する社会ではありません。どのような遺伝子(レシピ)を持って生まれたとしても、社会というレストランが提供するサービスや環境によって、その人の可能性が最大限に発揮され、幸福な人生を送れるような場であるべきです。

結論:私たちが選ぶべき「第三の道」

ハーデン教授の主張をまとめると、

  1. 遺伝の影響を直視する。
  2. その上で、遺伝的な弱者が不利にならないよう社会制度で補完する。

「努力不足」と誰かを責める前に、その人がどのような「くじ」を引いてきたのかを想像してみる。そして、社会全体で「眼鏡」を開発し、提供し続ける。

『遺伝と平等』が教えてくれるのは、遺伝という科学を「差別の道具」にするのではなく、「平等を達成するための最も強力なツール」に変えるための知恵なのです。


遺伝と平等:人生の成り行きは変えられる』(The Genetic Lottery)
キャスリン・ペイジ・ハーデン(著) 青木 薫訳) 新潮社(2023)

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